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有名西洋絵画の解説と紹介をするインターネット美術館です。ボッティチェリ 

サンドロ・ボッティチェリ

フィレンツェの黄金時代を生きた画家



Sandro Botticelli

1444〜1512

 

イタリア
 ボッティチェリ


本名はサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーゼ。「ボッティチェリ」は通称である。一説によると酒樽のように太っていた長兄のあだ名がボッティチェロ(小さな樽)を受け継いだという。
そのボッティチェリは1444年フィレンツェに生まれた。皮なめしの職人だった父は教育に熱心でボッティチェリに読み書き算盤を習わせた。フィレンツエで成功するためには不可欠な条件であり実際に後のメディチ家の教養人のサークルの一員として迎えられるのに大いに役立った。
15歳で画家フィリッポ・リッピに弟子入りするが、やがて才能が開花し師からも特別に目をかけられる存在となり腕に磨きをかけていった。
1470年ごろ自宅に工房を構え独り立ちする。
ボッティチェリは女性嫌いであったとも伝えられが、大変気さくな人柄で工房には人の出入りが絶えなかったという。金銭的にも無頓着でいたって自由な空気を持っていたらしい。
1470年、フィレンツエの商業裁判所に作品名「剛毅」を描き好評を得たのがきっかけとなりメディチ家と生涯に渡りつながりを結ぶこととなる。以後、上層階級の市民を次々にパトロンとし画壇の寵児となる。






 『東方三博士の礼拝』

 この作品の中にはメディチ家の人々が描かれている。


しかし、1490年ごろからメディチ家や富豪の腐敗政治に批判が集まるようになりボッティチェリのパトロンたちの没落が始まると作品の制作依頼もなくなり、そのうえフランス軍がイタリアに進行してくるなどフィレンツェの黄金時代は急速に沈んでいった。
晩年のボッティチェリは暮らしが極端に貧しくなり画家組合の会費も払えない事態となった。
1500年以降のボッティチェリの生活状態を確かめられる資料は残されていない。

 ボッティチェリの作品
作品の購入はギャラリーアオキ「ボッティチェリ」のページで購入できます。