Impressionism 1860〜1920               西洋絵画美術館 >> 印象主義

世界の名画 「印象派」


アカデミズムの絶対的権威に対抗した写実主義がさらに発展し現実の社会のありふれた風景に光をあて、季節や時の移ろいをカンヴァスに描きこむこと、これが印象主義の中核をなしている。

1860年代初めモネやバジール、セザンヌ、ゾラなど多くの若者たちが夢と希望を胸に故郷を離れパリへやって来た。彼らを待っていたのはシスレーやドガ、ルノワールたちだった。
彼らはグレールの画塾やアカデミー・スイスで運命的な出会いを果たし、すぐに意気投合した。
彼らを導いたのはルーブルの師だけではなかった戸外の制作と新しい世界を示してくれたミレー、コロー、ドービニー、ブーダンなどがいた。
彼らは自然の光のきらめきと鮮やかさ、時の移ろいの素晴らしさを自らの作品を持って教えてくれた。若者たちはそれぞれにサロン(官展)への挑戦を始めるのだがサロンでの評価は散々なものであった。
まもなくパリは、普仏戦争、パリ・コミューンの内乱に見舞われが、彼らの夢はくじけることがなかった。平穏になったパリで自主運営の展覧会を開催するのである。

1874年、後に第一回印象派展と呼ばれる展覧会がパリで開催される。
しかしここでもモネが出品した「印象・日の出」が批評家たちの酷評の的となり「印象などとばかげた主題だ!作品も未完成ではないか」と散々であった。
モネたちは第3回展から自ら「印象派」と名乗り世間にアピールすることになった。


今日、世界中で印象画の企画展が開かれ雑誌や画集で印象画家の紹介が行われ、彼らの作品が高額で取引される様を見るといささか奇異に感じることもあるが、この100年の間に印象派に対する深い理解と評価が進み、人々の美意識も大きく変化したことを物語っている
われわれ日本人も、印象派絵画との関わりは深く、絵画芸術を鑑賞するときの窓口が印象派作品となっている。もちろん同時代に活躍した画家たち全てが印象主義を掲げていたわけではないが少なからず印象主義の影響を受けていたといえよう。
黒田清輝、久米桂一郎、和田英作、青木繁、安井曾太郎、佐伯祐三など等、有名無名を問わずその影響を受け今日の日本絵画の中にも世代を超え印象主義が息づいているのである。

クロード・モネ

1840〜1926

1840年、クロード・モネはパリに生まれ、4歳のとき両親とともに港町ル・アーブルに移り住む。
教室で遊ぶより海岸で遊ぶことが好きで教師や町の名士面白おかしく誇張した風刺画を得意としていた少年だった。この少年に目を留めたのが画家ウジェーヌ・ブーダンである。

ブーダンはモネを写生に連れ出し、その才能を開花させた。モネは画家になる決心をし1859年にパリに出て、シャルル・グレールのアトリエに通いルノワールやピサロ、バジール、シスレーと出会う。彼らは古典的でアカデミックな美術教育に反発を覚え、彼らの先駆者である先輩たちマネなどにめぐり合う。

しかし、モネはパリの喧噪にはなじめずマネの紹介でパリ近郊のアルジャントイユに移り住みセーヌ河畔の風景を描いた。モネにとっては生活に困窮し厳しい時期であったがこの時がモネの前半生の重要な時期であった。

1874年の第1回印象派展の後も生活の苦しさは変わらなかった、1879年には長年連れ添った妻カミーユに先立たれ、モネの画風にも変化が現れた。「時間の経過と光の変化」に興味が注がれ連作に挑戦するようになったのである。

1888年に開いた個展の成功もあり経済的に安定した生活を送れるようになったモネはジヴェルニーという土地に住むことになる。ここでの生活が晩年の大成功へと変わってゆく。
この地での庭造りとその庭を描くことがモネのライフワークとなった。
このジベルニーの庭から「睡蓮」をはじめ数多くの名作が誕生している。


モネ 印象・日の出 モネ アルジャントイユの橋 モネ 日傘をさす女 モネの庭
印象・日の出 アルジャントイユの橋 散歩・日傘をさす女 モネの庭
モネ カミーユ・モネと子供 モネ アルジャントイユの野原 モネ 睡蓮 モネ ポプラの木の下で
庭のカミーユと子供 アルジャントイユの野原 睡蓮の池と日本の橋 ポプラの木下で
     
ラ・ジャポネーズ   草上の昼食 ラ・グルニエール  ライデン近くのチューリップ畑 


ピエール・オーギュスト・ルノワール

1841〜1919

ピエール・オーギュスト・ルノワールはフランス中部に町リモージュで仕立て屋の息子として生まれた。
3歳のとき一家はパリに移住。13歳のとき早くから絵心のあったルノワールは磁器絵付け職人のもとに見習いに出される。そして暇さえあればルーブル美術館に通いルーベンスやフラゴナールの名画の模写をした。
1862年エコール・デ・ボザール(官立美術学校)への入学を果たすが、その教育方に満足できずグレールの画塾へ通うようになる、グレールは決して革新的な画家ではなかったが寛容な人柄で多くの若者をひきつける魅力を持っていた。ここでルノワールはバジールやモネ、シスレーらと出会うことになる。

ルノワールは多くの友人たちと戸外での風景画の制作に励んだ。しかし一方で美術学校での勉強やルーブル美術館での古典作品の模写も続けており、他の印象派画家のように革新性ばかり追い求めることはなかった。伝統美も尊重しようというルノワールならではの立脚点があった。
また、サロンに入選するためには古典的技法を無視する訳にはいかない事情もあった。当時の画家にとってサロンに入選するとしないでは雲泥の差があり死活問題であったのだ。

普仏戦争で友人のバジールを失ってからモネといっそう親密になった。二人は肩を並べアルジャントイユで風景を描いた。
印象派の画家としてそこそこ評判になるようになっても作品は売れず不遇が続いたが、ある日、裕福な出版業者のジョルジュ・シャルパンティエ夫妻が彼の能力を認め作品の制作を依頼してきた。
ルノワールは期待に背かなかった。翌1879年サロンにも入選し、ジョルジュ・シャルパンティエ夫妻の後押しもあって大きな話題を呼び成功を収める。
その後は一流画家の道を歩むこととなる。

ルノワール 舟遊びの昼食 ルノワール ルグラン嬢 ルノワール ピアノを弾く二人の少女
ルノワール テラスの姉妹
舟遊びの昼食 ルグラン嬢 ピアノを弾く二人の少女 テラスの姉妹
       
ムーラン・ド・ラ・ギャレット  ぶらんこ  都会のダンス  春の花束 


ヤコブ・カミーユ・ピサロ

1830〜1903

ヤコブ・カミーユ・ピサロは当時デンマーク領だった西インド諸島のセント・トーマス島に生まれる。
父はスペイン系ユダヤ人で雑貨商を営んでいた。成人して家業を手伝っていたピサロはこの島にやって来たデンマーク人の画家フリッツ・メルビーと出会い絵画への関心を膨らませる。そして1855年両親の了解を得て画家になるべくパリへ向かった。
パリで当時の代表的画家ドラクロワやアングルの作品を目にするが、彼の心をとらえたのはコローやドービニーの風景画だった。
ピサロはパリ郊外で制作することが多かったが、パリ市内のアカデミー・スイスにも通うようになり、ここでモネヤ、セザンヌを知るようになる。
この頃のピサロは親の意向もあって、盛んにサロンへの応募を繰り返していた。しかし伝統にそぐわない絵画を描く画家たちはことごとく落選の憂き目に会うことになる。ピサロもその一人であった。
彼はシスレー、バジール、ルノワール、モネらとともに独自の展覧会の必要性について話し合った。
まもなく普仏戦争が始まり、展覧会の話も立ち消えとなり、フランス国籍を持たないピサロはロンドンに避難することとなる。
動乱が収まるとピサロはパリに戻った。その頃パリでは独自のグループ展の話が再燃。
ピサロは画家のための民主的な組織を作り上げ、グループ展のリーダー的存在となっていた。おおらかで謙虚な性格は人望を集めた。
セザンヌ、ドガ、ゴーギャン、スーラ、シャニックなどあまり人付き合いの良くない画家たちもピサロの尽力によって印象派展に参加するようになる。
八回開催された印象派展を裏から支えたのはピサロであり、全ての会に出品したのもピサロただ一人だった。
ピサロなしに印象派の成功はなかったであろう。


ピサロ テアトル・フランセ広場 ピサロ ポントワース ピサロ 羊毛をほぐす農婦 ピサロ ヴォワザン集落の入り口
パリのテアトル・フランセ広場 ポントワーズの花咲く菜園、春 羊毛をほぐす農婦 ヴォワザン集落の入り口


アルフレッド・シスレー

1839〜1899

アルフレッド・シスレーは1839年10月30日パリに生まれた。父ウィリアム・シスレーはマンチェスター生まれの実業家で、母もイギリスの上流階級出身でイギリス国籍のシスレー一家はフランスで裕福に暮らしたいた。
シスレー18歳の時家業の勉強をするためにロンドンへ留学している。しかし、シスレーは、ロンドン滞在中、勉強はそっちのけで美術館へ頻繁に足を運び、カンスタブル、ターナーなどの作品に熱中していた。

1860年パリに戻った彼は、家業は継がず画家をめざそうと決心し、親を説き伏せてシヤルル・グレールのアトリエに通いはじめた。このアトリエにはモネ、バジール、ルノワールも顔を出しており、シスレーは伝統にとらわれない技法で絵を描いていた彼らと意気投合。戸外に連れ立って出かけ、制作に励んだ。

1871年の普仏戦争のさいシスレーの実家は戦火にさらされ父ウィリアムも破産状態で死去し、シスレーも全財産を失ったことで絵によって家族を養わなければならないこととなった。

 シスレーはカンヴァスに下絵をほとんど描かずに、直接、油絵具で描くことが多かった。自然光のもとにあるものを、
目に映ったままに描こうという印象派の理念は、「鑑賞者にとって理解しやすく、心をとらえるような表現」を求めたシスレーにとって、探く共感できるものだったのだろう。その後、印税派のほかのメンバーがそれぞれ独自の道を歩みだしても、シスレーは目の前に広がる風景を静かに見つめありのままの自然を描こうとした。
柔らかな光に満たされた穏やかな風景画。抒情豊かに描き出された自然は、印象派の心のふるさとであり、原風景といってもいいだろう。ピサロは、(典型的な印象派の画家は誰か?) というマティスの質問に対して、(シスレーだ)と言いきっている。
穏健な画家しかしながら、穏健なシスレーの絵は、強い個性をもった印象派の仲間たちのなかでは、つつましく控えめすぎたようだ。第一回〜第三回、第七回と、シスレーは通算四回の印象派展に出品しているが、ほかの画家たちにくらべ酷評を浴びることもなければ、特別な評価を得ることもなかった。

 デュラン・リユエルをはじめ、彼の絵を称賛する画商やコレクターも少なくなかったが、生前の彼にモネのようなブームが訪れることはなく、経済的な苦境から抜け出すことはできなかった。
1899年1月29日、シスレーは長年患ってきた咽頭ガンが原因で、この世を去った。前年10月、舌ガンに苦しんでいた妻を献身的に看取ってから三か月後、子どもたちの面倒を見てもらうため、会いにきてほしいと、モネに依頼した数日後のことだった。そして、2月1日、パリから駆けつけたモネやルノワールに見守られ、モレ・シュル・ロワンの墓地に埋葬された。

牧草地の牛 ポール=マルりの洪水と小舟 春の小さな草地 ヴィルヌーヴ=ラ=ガレンヌの橋


ポール・セザンヌ

1839〜1906

金持ちで暴君的な父を持ち、その私生児として生まれたポール・セザンヌは父の強い希望で大学で法律を学び父の所有する銀行で働いた。しかし、画家になる夢を捨てきれず22歳の時に反対する父を説得し絵を描くためにパリに出た。彼は初期にはかなりエロティックな作品を描いたりしていたが父に似て頑固者で気難しく、神経症的な疑い深い性格だったために、変わり者との風評が立った。
しかし、何年も努力を重ねた結果、自分なりの手法をマスターし、ついには19世紀最大の画家のひとりとして名を成した。
印象派の画家たちとの交際を通じて自然を描くことを学び始めたが、やがて全く新しい絵画表現を創出し、のちに”モダンアートの父”と称されるようになった。
彼は円熟期のほとんどを、遠く離れたプロバンスで一人制作にうちこみ、その生涯を芸術にささげた。名声は遅れてやってきた。1895年の個展で、彼の天才ぶりはだれの目にも明らかとなった。1906年絵の制作中に嵐に打たれ、67歳でこの世を去った。


りんごとオレンジ 大水浴図 赤いチョッキの少年 首吊りの家


ギュスターヴ・カイユボット

1848〜1894

ギュスターヴ・カイユボットはパリの大ブルジョアの家庭に生まれる。
大学で法律を学んだが政治体制が帝政から共和制へと大きく変化したのを機に、画家になる決意をする。
父親は保守的なブルジョアで息子がアカデミー画家になることを願っていたが、その父が世を去ると莫大な財産とともに自由を手に入れ、印象派一筋に突き進む。
カイユボットは印象派のために金銭的援助を積極的に行った。会場費や額縁代、宣伝広告費への資金提供、画家たちの絵画の購入などである。
だが、第6回展の時、出品作家の選定でドガと激しく対立したため自身の出品を取りやめた。
次の7回展にはドガが参加しなかったのでカイユボットは出品したが、これが最後の参加となった。
彼は議員活動やボート競技などに夢中になったため自身の作品の数は少ない。また、裕福であったため自身の作品を売る必要もなかったことから作品が世に出る機会がなく世間から忘れられた存在になってしまった。
かつては画家というより印象派画家たちのパトロンと思われていたようである。


カイユボット 庭師 カイユボット パリの通り カイユボット ヨーロッパ橋 カイユボット アルジャントイユのヨット
庭師 パリの通り・雨 ヨーロッパ橋 アルジャントイユのヨット


エドガー・ドガ

1834〜1917
 ドガ 1834〜1917

エドガー・ドガはパリに生まれる。祖父が銀行を興し成功した新興ブルジョアだった。
最初は家業を継ぐためパリ大学の法学部に進んだものの、途中から画家を目指しアングルの弟子ラモットに師事した。エコール・デ・ボザール(官立美術学校)にも入学し、ルネサンス絵画の研究のためイタリアにも滞在している。こうした経歴は他の印象派画家の貧しさと異なり華やかである。
しかし、形骸化したサロンに不満を抱いていたことは他の印象派画家たちと同じであった。ドガは激情型の個性の持ち主で印象派画家たちとの会話は辛らつで激論となることが多く難しい人物であったようだ。

1870年代になるとオペラ座に通い卓越したデッサン力で楽師や踊り子を描いた。
ドガは普仏戦争に従軍して目を痛め視力の低下に悩まされていた。
1874年には父が多額の負債を残し死去したため兄弟とのトラブルも重なって経済的苦境に立たされるが、そんな時に第1回印象派展が開かれた。
ドガのモティーフや構図は独特で踊り子や娼婦、カフェの様子をスナップ写真のように切り取り劇画のような表現で描く。
また、パステルを用いるなど視力の低下を補う工夫をしている。その結果油彩では見られない色の輝きも表現されドガはパステルの色彩の素晴らしさを認識したといえる。
ドガは生涯独身を通し晩年は孤独な生活を余儀なくされた。83歳で死去。


ドガ オフィスでの肖像 ドガ ダンスのレッスン ドガ エトワール ドガ カフェにて
オフィスでの肖像 ダンスのレッスン エトワール カフェにて(アプサント)


フレデリック・バジール

1841〜1870

フレデリック・バジールは南フランスのモンペリエで裕福なブドウ農家の家に生まれた。
そのためモネやルノワールが味わった生活苦とは縁がなっかった。
医学を学ぶ目的でパリに出たが、幼い頃からの芸術的環境に恵まれていたため画家になる夢を捨てきれず、まもなくグールの画塾に入門。ここでモネやルノワール、シスレーといった
印象派の主力メンバーたちと知り合い互いに意気投合することになる。
特にモネとは気が合いパリで共同アトリエを構えている。また、モネの大作「草上の昼食」のモデルも務めるなどモネとの新密度がうかがえる。
バジールも旧態依然のサロンの出展には疑問を持っておりやがて開かれる印象派展をイメージしていた。
1870年フランス中部のオルレアンで一人のフランス兵が戦死した。フレデリック・バジール軍曹、享年28歳だった。
この若者の死は、やがて印象派と呼ばれる若い画家たちに大きなショックを与えたに違いない。特にモネの悲しみようは尋常ではなかったようだ。
残念ながら早すぎるバジールの死のため作品数も少なく、何を求め何を描きたかったのか明確でない。
彼が他の印象派画家たちのように長生きしたらモネやルノワールとともに巨匠の仲間入りをしたことだろう。


バジール アトリエ バジール 村の眺め バジール 投げ網を打つ漁師 バジール 家族の集い
バジールのアトリエ 村の眺め 投げ網を打つ漁師 家族の集い


ヴィンセント・ファン・ゴッホ

1859〜1890

フィンセント・ファン・ゴッホはオランダ南部の小さな町フロート・ズンデルトで生まれた。
祖父も父も牧師であることからフィンセントにも同じ道が考えられたが人から強制されることが嫌いで頑固な性格のゴッホは学校になじめず退学となった。
絵心のあったゴッホは叔父の紹介でパリの一流画商グービル商会ハーグ支店に勤める。この時に失恋をするのだが、その後にも経験する何度かの失恋がゴッホの心に深い傷をもたらしたようだ。
1876年画商を解雇されたゴッホは聖職に就くために勉強に励むがラテン語の勉強について行けず正規の牧師になる道は閉ざされてしまう。
見習いの伝道師として炭鉱や農村を廻った時、ミレーのように貧しい農村の労働者を描きたいと想いデッサンをしている。
伝道師としての任期も延長されず残された道は絵を描くことだけだった。
弟のテオから絵を送ることを条件に援助が受けられるようになったゴッホだが作風は暗く、32歳になっても売れない絵を弟に送り続けるゴッホは家族の厄介者だった。アカデミーでも絵画を学ぶのだが基礎の繰り返しで長続きせずパリのモンマルトルに住む弟テオのもとに転がり込む、そこでパリの最先端の絵画の潮流を知ることになる。
ピサロ、ギヨマン、シャニック、セザンヌ、スーラ等の作品である。
彼らとの交流でゴッホのパレットは明るくなった。しかしパリでの生活はゴッホに向いていなかったようだ。
1888年ロートレックの勧めもあり、生活費の安さと太陽を求めてフランス南部のアルルに移る。そしてこの地から数々の名作が生まれることになる。
アルルでのゴーギャンとの共同生活は有名だがゴッホの強すぎる個性のため僅か二ヶ月で悲劇の別れを迎え、そのショックもあったのだろうか精神の不安定な日々を送るようになると、自らアルル近郊にあるサンレミの療養所に入り療養に努める。弟テオに勧められガシュ医師がいるパリ近郊のオヴェールへ移るが不安定な精神と強い孤独感にさいなまれ1890年ピストルで自らの生涯を閉じた。
享年37歳だった。


ゴッホ 自画像 ゴッホ アルルの跳ね橋 ゴッホ 夜のカフェ・テラス ゴッホ ローヌ川の星月夜
包帯をしてパイプをくわえた自画像 アルルの跳ね橋 夜のカフェテラス 星降る夜・ローヌ川の星月夜
ゴッホ ドービニーの庭 ゴッホ
ドービニーの庭 鴉の群れ飛ぶ麦畑
ゴッホ 郵便配達夫 ゴッホ ルーラン夫人 ゴッホ ひまわり ゴッホ 糸杉と星の見える道
郵便配達夫ルーラン ルーラン夫人 ひまわり 糸杉と星の見える道
ゴッホ 花瓶のバラ ゴッホ 寝室 ゴッホ ラ・クロールの収穫風景 ゴッホ 種をまく人
花瓶のバラ ゴッホの寝室 ラ・クローの収穫風景 種をまく人