Renaissance  1400年頃〜1600年頃               西洋画美術館 >>ルネサンス


世界の名画 「ルネサンス絵画」

 ルネサンスなんとも響きのよい言葉だ「再生」を意味するフランス語なのだが、言葉を耳にしただけで明るい光か射してきたような気がして、軽やかな足どりで歩き出したくなる。
新聞の見出しや本のタイトルなどで「新時代の幕開け」「経済や文化の復興」といった期待を込めてルネサンスという語が使われるのを、私たちは何度となく目にしている。
 しかしながら、ほんとうのルネサンスは歴史上ただ1回しか起こらなかった。14世紀から16世紀にかけて、イタリアを震源地としてヨーロッパ全土をゆるがせた文化的な地殻変動。これこそが言葉の正しい意味での「再生」の時代、ルネサンスという現象なのだ。


 ルネサンスを考えるうえで忘れてはならないのは、当時の人々が「いま自分たちはルネサンス時代の真っただなかにいる」ことを自覚していたという事実である。
 私たちは歴史の教科書で「古代」や「中世」についで学ぶ。美術の本には「バロック」「ロココ」という時代かあったように書かれている。
でも考えてみれば、その当時を生きた人たちにとってはいつの時代も「現代」でしかなく、自分たちは古代の人間であるとか、いまバロック文化をはぐくんでいる、といった認識はまったくなかったはずだ。
 ルネサンス時代のイタリア人は違っていた。彼らは現在がかつてない復興と繁栄の時代であり、1000年以上も前の「黄金時代」の再来であると信じていたのであるイタリア語で「再生」を意味する「リナッシタ」。
彼らは「古代ギリシャ・ローマ文明の復興」という意味を込めて好んでこの語を使い、自分たちの時代のキーワードとしていた。
 学ぶべき手本としてのクラシックな「古典古代」、ふたつの輝かしい時代に挟れたなかだるみの沈滞期「中世」。こうした呼び名が生まれたのも、じつはルネサンス人たちの新しい歴史意識のなかからだったのだ。なんという誇り高い自覚をもった人々なのだろう。


 ルネサンスがどんな時代だったかを肌で感じ取るには、なんといってもイタリアを旅してみるのが一番だ。フィレンツェやヴェネツィアの街を歩くとき、ヴァテイカン宮殿で巨大なフレスコ画を仰ぎ見るとき、私たちはそこに、輝かしく壮麗で、生きる喜びにあふれた人間たちの生の声を聞くことができる。
 ただし、その声はあまりにも芳醇で多彩、複雑に響きが絡み合っていて、一つひとつを聞き分けるのは至難のわざだ。数限りない個性的な歌い手を前にして、私たち旅行者は途方に暮れ、立ちつくすばかりだ。


 2世紀以上にわたり、ルネサンスはおびただしい数の天才芸術家を生み出した。14世紀初頭のジョットから16世紀前半の三大巨匠レオナルド・ダ・ヴインチ、ラファエロ、ミケランジュロの時代まで、美術の世界はすさまじいスピードで進化と成熟を遂げ、遠近法の発見や正確な人体表現の達成など、目覚ましい技術革新が相次いだ。ルネサンスは何よりも発明と発見の時代だったのだ。
 ではジョットは100年後のマザッチョに追い越され、200年後のミケランジェロによって凌駕されたのかといえば、そう単純には言いきれない気がする。ジョットが描き出した人間のドラマは、技術的な未熟さにもかかわらず、その後のだれもがなしえなかった表現の高みに到達していたのだから。ルネサンス美術は稚拙から熟達へと一直線に発展したのではなかったかもしれない。むしろ、さまざまな個性が出現し、それぞれの段階でまばゆい光芭を放ったと考えたほうがよい。
 21世紀の門口に立ち、失われた人間性の回復を模索する私たちに対して、人間が人間らしく生きることを発見した時代、ルネサンスは大きなメッセージを投げかけているのだ。


レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452〜1519            
フィレンツエ近郊のヴィンチ村に生まれる。自然科学にも興味を示しその才能を発揮したルネサンスの万能人。
人体解剖やスフマート(ぼかし技法)を駆使して完璧な絵画表現を目指したが完成作は少ない。
フィレンツエ、ミラノ、ローマなどを転々とし、最後は国王フランソワ一世に招かれフランスに滞在。アンポワーズで客死。
最後の晩餐 受胎告知 レオナルド・ダ・ヴィンチ モナリザ 岩窟の聖母
最後の晩餐 受胎告知 モナ・リザ 岩窟の聖母


ミケランジェロ  1475〜1564
イタリア中部のカプレーゼに生まれる。
フィレンツエで彫刻を学び、ローマでシスティーナ礼拝堂の天井画や正面祭壇画を描く。
彫刻の代表作に「ダヴィデ」などがある。晩年にはサン・ピエトロ大聖堂の造営の携わる。ルネサンスの最大巨匠。ローマで88歳の長い生涯を閉じる。
ミケランジェロ アダムの創造 ミケランジェロ 最後の審判
アダムの創造 最後の審判


ラファエロ 1483〜1520
イタリア中部のウルビーノに生まれ、フィレンツエに滞在後ローマで活躍。ヴァチカン宮殿「署名の間」の壁画「アテネの学堂」などを制作するほか、サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家や古代遺跡発掘の監督官を歴任する。
調和に満ちた作品は、以後の西洋絵画のお手本となった。37歳の誕生日に死去。
ラファエロ ガラティアの勝利 ラファエロ 牧場の聖母 ラファエロ 小椅子の聖母 ラファエロ キリストの変容
ガラティアの勝利 牧場の聖母 小椅子の聖母 キリストの変容


フラ・アンジェリコ 1400〜1455 ピエロ・デッラ・フランチェスカ 
1415〜1492
ティレントレット  1519〜1594
フィレンツエ近郊に生まれる。
穏やかで優しい人柄と強い信仰心の持ち主であった僧侶のため「天使のような画僧」を意味するフラ・アンジェリコと言われるようになった
イタリア中部のサンセポルクロに生まれ、フィレンツエで活動を始める。遠近法を駆使し明晰で静かな画面構成が特徴。 ヴェネチアに生まれ、生涯をヴェネチアで過ごす。ティッツアーノに師事するが国際的な名声を求めず、地元の教会などの注文を精力的にこなした。
フラ・アンジェリコ 受胎告知 レオナルド・ダ・ヴィンチ 最後の晩餐
受胎告知 キリストの鞭打ち 最後の晩餐 スザンナの水浴


ティツイアーノ 1490〜1576 マンテ−ニャ  1431〜1506
アルプス山麓の小村で生まれたヴェネチア派の代表画家。
ジョルジョーネの助手を経てあでやかな色彩と流麗な筆さばきによって国際的に活躍した。
「ウルビーノのヴェーナス」など裸体画をはじめとし肖像画、神話画などを手掛けた。ペストのため死去。
北イタリアの小村に生まれ、パドヴァで修行。
マントヴァ公の宮廷画家として過ごす。
下の作品はマンティーニャの代表作。
バッカスとアリアドネ フローラ 死せるキリスト


ボッティチェリ 1444〜1510
フィレンツエに生まれる。ボッティチェリは通称で「小さな樽」、兄が太っていたためその通称で呼ばれたが本名はアレサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ。
フィリッポリッピに師事し、メディッチ家の当主ロレンツオの庇護を受けながらボッティチェリ特有の優美で洗練された作風を確立した。
後半生は修道士サヴォナーラに心酔して作品は硬直化し16世紀に入ってからは制作を放棄する。
ボッティチェリ 東方三博士の礼拝 ボッティチェリ ザクロの聖母
サン・マルコの祭壇画 東方三博士の礼拝 サンタンブロージュの祭壇画 ザクロの聖母
ボッティチェリ 春 プリマヴェーラ  ボッティチェリ ヴィーナスの誕生 
春(プリマヴェーラ)  ヴィーナスの誕生 



ヴェロネーゼ 1528〜1588 ポントルモ 1494〜1557  パルミジャニーノ1503〜1540
イタリア北東部のヴェローナに生まれる。
ヴェネチアを代表する第三世代の画家。
フィレンツエ近郊のポントルメ生まれ。
ポントルモは自身の生地にちなんだ通称で本名はヤコボ・カルッチ。
ルネサンス末期に独自のスタイルを確立したマニエリスムの代表画家。
 イタリア北部のパルマ生まれ。
錬金術に熱を上げ37歳で死去
 
カナの婚宴 十字架降下 長い首の聖母 



北方ルネサンス
   
ホルバイン 1497〜1543 ヤン・ファン・エイク1390〜1441 ブリューゲル 1526〜1569
南ドイツのアウグスブルクに生まれ、後に英国で活動した。国際的に活躍した肖像画家として著名であるとともに、木版画シリーズ『死の舞踏』の作者として、版画史上も重要な作家である。 ヤン・ファン・エイクは15世紀ネーデルランド絵画を代表する画家。 父ブリューゲルは『農民の踊り』、『子どもの遊戯』、『雪中の狩人』などの風俗画で有名な画家であるが、生年は(1525年から1530年の間と推定されているが)不明である。生地についてもブラバント公国のブレダとする説もあるが、確かなことはわかっていない
ヤン・ファン・エイク アルノルフィーニ夫妻の肖像 ブリューゲル 農民の婚宴
大使たち アルノルフィーニ夫妻の肖像 農民の婚宴