ロマン主義・写実主義 1800〜1880                   西洋絵画美術館 >> ロマン主義・写実主義


ロマン主義は、作品の中に物語性の感動やスキャンダルのエピソードを描きこむこととして新古典主義をさらに洗練し拡張したものだが、構図や絵柄がダイナミックで非常に民衆受けした。ジェリコーやドラクロワがその代表的な画家だが初期には残忍な事件や事故などを題材にしたため批評家からは不評をかった。
やがて、もっと現実を見据えるべきだという画家や批評家が現れ、農民や労働者の暮らしや風景を題材に人間の内なるものを追及する作品が評価を受けるようになった。そうした作風を写実主義と呼びミレーやコローが描いた農民の暮らしや田舎の風景がサロンでの支持を受けるようになる

ドラクロワ  1798〜1863

フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワはフランス・ロマン主義を代表する画家である。
ドラクロワはパリ近郊のシャラントン・サン・モーリスで革命政府の高官の子として生まれる。そのため若くして国家から並々ならぬ支援を受け、上流社会に出入りし時代の寵児となった。
ドラクロワは生涯の大半をサロンに出品するための巨大なカンヴァス画を制作するために費やした。テーマの選定にあたってはなにものとも妥協せず批評家たちとの対立もあったが、作品のいくつかはフランス政府に買い上げられた。
後半生の30年間は、教会や記念建造物の壁画を描くことにエネルギーを注いだ。晩年は孤独を好み65歳で世を去った。



民衆を導く自由の女神 十字軍のコンスタンチノーブル入城 キオス島の虐殺 ユダヤ人の婚礼
民衆を導く自由の女神 十字軍のコンスタンチノープル入城 キオス島の虐殺 ユダヤ人の婚礼


ゴヤ 1746〜1828

フランシスコ・デ・ゴヤは18世紀スペインが生んだ最大の画家である。
ゴヤはスペイン北東部の寒村フェンデトードスで彫金師の息子として生まれる。18歳でマドリードに出てフランシスコ・バイユーのアトリエで働き、のちに彼の妹と結婚した。
ゴヤが名を成したのは遅く、43歳で宮廷画家となってからである。
ゴヤは初めタピストリーの下絵を描いて名声を得たが後には肖像画で成功した。だが、本当の傑作が生み出されるのは、重い病気にかかって完全に耳が聞こえな
くなってからである。
風変わりで現実離れした「想像上の産物」である絵画やエッチングのあとには、上流社交界への風刺と戦争の惨状をぞっとするような光景で示した作品が続く。晩年の「黒い絵」はさらに劇的で、重苦しく、衝撃気的である。


着衣のマハ 裸のマハ 巨人
マドリード ドーニャ・イザベル
着衣のマハ 裸のマハ 巨人 マドリード ドーニャ・イサベル・デ・ポルセール


コンスタブル(カンスタブル) 1776〜1837
 
ジョン・カンスタフリレは1776年6月11日、サフォークのイースト・バーグホールトに6人兄弟の第4子として生まれた。
父のゴールディングざま富裕な穀物商で、イースト・バーグホールトと近くのデダムに風車と水車による製粉場を所有していた。村の地所とともに自分の小型船テレグラフ号をもっていた。ストゥア河口のミストリーに係留されたその船は、穀物をロンドンに運んだ。カンスタブルは豊かで幸福な家庭でなに不自由なく育った。
 自身がそう呼んでいるように、彼は屈託のない子供時代をストゥア川i荒城や周辺で過ごした。ラヴェナムの寄宿学校に短期間いたのち、デダムの通学学校に移った。そこの教師の手ほどきで、カンスタブルは素描に興味をおばえるようになった。この関心をより実質的に促したのが、土地の配管工でガラス屋のジョン・ダンソーンであり、少年をスケッチ旅行に連れ出した。
コンスタブルが本格的に画家の修行を始めたのは比較的遅く23歳になってからで、国立美術学校へ入学した。26歳のころから戸外での油彩スケッチを始めるようになり風景画の魅力に取り付かれるようになる。
一流画家の証ロイヤル・アカデミーの会員になれたのも53歳になってからで、国内での評価より海外での評価のほうが高く代表作「干し草車」が絶賛されたのもフランスのサロンにおいてである。それでもコンスタブルは祖国を離れず故郷の風景を描き続けた。


ソールズベリー大聖堂 干し草車 フラットフォードの水車場 白い馬
ソールズベリー大聖堂 干し草車 フラットフォードの水車場 白い馬


ギュスターヴ・モロー 1826〜1898
 
モローはパリの裕福で教養の高い家庭で生まれるが幼い頃から体が弱く、読書やデッサンの好きな子供であった。
とりわけ、父の蔵書であるギリシャ神話やローマ神話など古典文学や版画集に夢中になっていた。
20歳で美術学校に入学するがドラクロワに心酔し26歳で初めてサロンに出展、翌年も出展し国家買い上げとなるが、多分に父親の助力によるところがあったといわれている。
1857年、自身の限界を感じたモローはイタリアへ旅立ち、ルネサンス期の作品模写に明け暮れる毎日をおくるが、1859年には帰国する。しかし、長らく模索の日々が続き、約10年の沈黙のあと1864年、『オイディプスとスフィンクス』をサロンに出展すると大きな話題となり、彼自身の実質的デビューとなる。この時点で独自の画風を築きあげたといって良いだろう。

しかし時代はクールベ、マネなどの出現によりロマン主義からまだ見えぬ次の時代へと移行しつつあった。モローはサロンに背を向けアトリエにこもり作品作りに没頭するが1876年、モロー50歳のとき『ヘロデ王の前で踊るサロメ』を発表し再び大成功を収める。
もともと裕福な家庭環境にあったモローは生活苦とは無縁のため自身の作品を手放すことが少なかった。そのため一般の民衆は彼の作品を間近に観ることがなく疎遠であった。そのことを普段から気にしていたモローは1895年、自宅を改修し美術館にし邸宅ごと国家に寄贈する旨の遺言をしたためた。1898年胃がんにより死去享年72歳。そして1903年弟子のルオーを館長として美術館が開館した。
もし、美術館が出来なければ印象派の陰に隠れ、忘れられた存在になっていたかもしれない。



オルフェウス ゼウスとエウロペ キマイラ 人類の生
オルフェウス ゼウスとエウロペ キマイラ 人類の生


ミレー 1814〜1875

ジャン=フランソワ・ミレーはフランス北部シェルブール近郊の村グリュシューに八人兄弟の二番目、長男として生まれる。
生家は裕福ではないが格式のある旧家で、父は農業の傍ら教会の合唱団の指揮者でもあり、また、彫刻もしていた美術愛好家でもあった。
家庭は敬虔なカトリック教徒で、祖母が忙しい母に代わり子供たちを育てたが、それは厳しくも愛情豊かであった。
ミレーのその後の作品の中に祖母の教えが息づいている。

長男であるがゆえに本来、父のあとを継ぎ農業を続けるべきであったが父はミレーの才能を認め画家になることを許した。祖母の勧めでシェルブールに出て画家ラングロワの画塾に入るが成績優秀なためシェルブール市から奨学金を得られパリの国立美術学校に入門する。
しかし、授業内容やパリの風になじめず1839年美術学校を退学してしまう。その結果、市からの奨学金も打ち切られ、生活のために彼の嫌いだったヴァトゥーやブーシェのような風俗画や裸婦を描かなければならなかった。

だが、翌年のサロンで『ルフラン氏の肖像』が入選し郷里でもそのことが評判になった。ついに画家としての第一歩を踏み出すことが出来たのである。
地元シェルブールでポーリー・オノと結婚し肖像画家として活動するが、三年の間あまり評判は得られず再び新妻を連れてパリに出たが貧しく不遇な年月を送るうち1844年、妻ポリーヌも若くして病死してしまう。ミレーにとって最悪の3年間であった。

その後、シェルブールで二人目の妻となるカトリーヌ・ルメールと出会うが実家が結婚に反対したため二人は駆け落ち同然でパリに出た。
その後も極貧生活は続くがカトリーヌは貧しさに耐え献身的に夫ミレーに尽くし生活を支えた。カトリーヌの支えなしに巨匠ミレーはありえなかったといえる。
1848年のサロンで『箕をふるう人』が好評を得て新政府によって買い上げられ、内務大臣からも注文を受けることとなった。この頃から農民画家としてミレーの画風が確立し始めてきた。
しかし、パリではコレラが流行り始めたため、妻と3人の子供をつれ郊外の村バルビゾンへ避難した。数週間で再びパリに戻るつもりだったがバルビゾン村が気に入ってしまい、この地で作品作りに没頭した。生活は相変わらず楽ではなかったが、少しづつ評価が高まり『落穂拾い』『晩鐘』『羊飼いの少女』など後世、傑作といわれる名画が生まれ出てきた。
しかし、不思議なことにミレーの評価はすでにアメリカで高まっていた。『晩鐘』がプロテスタントのアメリカ人に賞賛をもって迎えられたのである。
1860年、ミレーの作品はベルギーの画商に25点も高額で売れ、貧困生活に別れを告げることとなる。ミレー46歳である。
1867年パリ万博で『落穂拾い』『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』などを出展し、地位と名声を揺るぎないものとした。
その後は画家として巨匠の道を歩み1874年家族に看取られながら亡くなった。享年60歳。


落穂拾い 晩鐘 羊飼い 鍬を持つ男
落穂拾い 晩 鐘 夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い 鍬を持つ男
子供に食事を与える農婦 ランプの下で縫物をする女 樫の木陰に座る少女 糸を紡ぐ少女
子供に食事を与える農婦 ランプのもとで縫い物をする女 樫の木陰で座る少女 糸を紡ぐ少女


その他のロマン主義作品

19世紀のフランス絵画界はドラクロワを筆頭に多くのロマン主義作家現れた。
しかし、その後にやってくるミレーやコローの写実主義に多くの注目が集まるようになると歴史的でドラマティックな作品はサロンからも姿を消すようになり画家たちも忘れられた存在となっていった。
下の作品はそうした中でも注目度の高かった作品である。


ベンヤミンの解放を拒否するヤコブ

ウジェーヌ・ロジェ
ディオゲネスを訪れるアレキサンダー大王

ニコラ=アンドレ・モンシオ
攻囲されたパリに物資を運ばせるアンリ4世

ギョーム=フレデリック・ロミイ
ルーアンの牢内のジャンヌ・ダルク

ピエール=アンリ・レヴォアル