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有名西洋絵画の解説と紹介をするインターネット美術館です。アングル 

ドミニク・アングル

新古典主義の後継者



Dominique Ingres

1780〜1867

 

フランス
 
 ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルは1780年フランス南西部の田舎町モントーバン生まれた。父は、その町で絵画、彫刻、装飾など幅広く活躍した芸術家でアングルに音楽まで手ほどきをした。
環境と才能に恵まれたアングルは11歳で王立美術アカデミーの美術学校に入学し17歳でダヴィッドのアトリエに入り、画家への道を歩み始めた。
ローマ賞を受賞してからは何年もイタリアで過ごしルネサンスの巨匠たち、特にラファエロの研究に没頭しアングル独特の官能的な美の理想を見出した。
ローマでの修行途中で母国フランス美術アカデミー時代を振り返り「私は騙されていた、ここで最初から勉強をやり直さなければならない」と記している。美術アカデミーが求めたのは男性的な力強い表現だがローマで見出したのは女性的でたおやかな美しさだった。
それ以降、肌の美しさや素材の質感などでより上品で美しい描写に変わっていった。



「ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像」1845年 油彩 カンヴァス 131.8x92.1cm

ナポレオンの庇護を受けて生活は豊かであったがナポレオンの失脚とともに一旦はどん底生活に一転する。
だが、1841年パリは戻るとラファエロのような優美な技法がサロンで絶賛され、ロマン派のドラクロワとライバルとして位置づけられ新古典主義の旗手としてもてはやされた。
アングルの熱心な愛好家であった王侯貴族たちがそろって彼を歓迎し、肖像画などの注文が激増する。
社交界の肖像画や官能的な裸体画で彼の右に出る者はいないと評される。


「泉」1856年 油彩 カンヴァス 163x80cm

晩年はレジオン・ドヌール二等勲章も授与されフランス美術界における立場はゆるぎないものとなったが、ドラクロワが美術アカデミー会員に選出されると「私は、この愚かな世紀と決別したい」と嘆いたと言われる。

1867年1月、肺炎にかかりパリで死去する。




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