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有名西洋絵画の解説と紹介をするインターネット美術館です。レンブラント 

レンブラント

光と影が創り出す瞬間のドラマを描く男



Rembrandt Van Riin

1606〜1669

 

オランダ
 レンブラント


1606年、オランダの工業都市ライデンの製粉業を営む裕福な家庭に生まれる。
地元の画家ピーテル・ラストマンに弟子入りし、1625年、故郷のライデンの戻り自身の工房を構える。
1629年、オランダ総督の秘書ハイヘンスが訪れ、『銀貨30枚を返すユダ』(下の作品)の感情表現を絶賛している。ハイヘンスは絵画に関する造詣が深く社会的地位も高かった。そのハイヘンスとの出会いはレンブラントの人生の転機となった。



 ハイヘンスが絶賛した作品。

 『銀貨30枚を返すユダ』

レンブラントが最初に注文を受けた肖像画『ニコラース・ルッツの肖像』はまるで生きているかのような真に迫る迫力のある表現で当時の人々に衝撃を与えた。














 『ニコラース・ルッツの肖像』

 これ以来レンブラントの下には多くの肖像画の注文が舞い込むようになった。

1631年、アムステルダムに移住し集団肖像画を描くようになると、この分野でも際立った才能を発揮している。ただの横並びの肖像画ではなく一人ひとりの人物を表情豊かに描き、スナップ写真のような動きまで取り入れている。これにより名声はさらに高まった。
この頃、作品は肖像画だけではなく歴史画や神話画などストーリー性の高いものも多く取り入れるようになり作品の幅が急速に広がっていった。
工房では弟子たちが他の工房の20〜30倍の高額の授業料を払い、師の技術を学んでいた。
このころアムステルダムは国際貿易によって奇跡的な経済発展を遂げ、世界中からあらゆる物が集まるようになっていた。
裕福になったレンブラントはオークションなどで美術品や骨とう品を買い集めアムステルダム市内に豪邸を購入した。
1642年、『夜警』を完成させるが、最愛の妻サスキアが29歳で死去。
順風満帆に見えた生活も、その後の女性関係で婚約不履行の訴訟など私的な混乱が続いた。
それでも、レンブラント自身の画家としての評価は相変わらず高く絵画の注文は絶えることがなかった。
1650年代にはいると英蘭戦争のあおりを受けオランダ全体が空前の不況を迎える。
アムステルダムの街も一時のような活況はなくなりレンブラント自身税金の支払いなどに苦しむようになった。美術品や骨とう品、自身の作品も売却するが値が付かずわずかな金額にしかならなっかった。
1656年、ついに自己破産の申請を行う。
1663年、長年連れ添ったヘンドリッキェ死去。
1668年、息子ティトゥス死去。
1669年、困窮の中、レンブラント死す。


「夜警」
 レンブラントの作品

作品の購入はギャラリーアオキ「レンブラント」のページで購入できます。