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有名西洋絵画の解説と紹介をするインターネット美術館です。ルノワール 

ピエール・オーギュスト・ルノワール

幸福の画家



Pierre・Auguste・Renoir

1841〜1919

 

フランス
 
ピエール・オーギュスト・ルノワールはフランス中部に町リモージュで仕立て屋の息子として生まれた。
3歳のとき一家はパリに移住。13歳のとき早くから絵心のあったルノワールは磁器絵付け職人のもとに見習いに出される。そして暇さえあればルーブル美術館に通いルーベンスやフラゴナールの名画の模写をした。

1862年エコール・デ・ボザール(官立美術学校)への入学を果たすが、その教育方に満足できずグレールの画塾へ通うようになる、グレールは決して革新的な画家ではなかったが寛容な人柄で多くの若者をひきつける魅力を持っていた。ここでルノワールはバジールやモネ、シスレーらと出会うことになる。

ルノワールは多くの友人たちと戸外での風景画の制作に励んだ。しかし一方で美術学校での勉強やルーブル美術館での古典作品の模写も続けており、他の印象派画家のように革新性ばかり追い求めることはなかった。伝統美も尊重しようというルノワールならではの立脚点があった。
また、サロンに入選するためには古典的技法を無視する訳にはいかない事情もあった。当時の画家にとってサロンに入選するとしないでは雲泥の差があり死活問題であったのだ。

普仏戦争で友人のバジールを失ってからモネといっそう親密になった。二人は肩を並べアルジャントイユで風景を描いた。



フレデリック・バジール

成功への道
ルノワールもモネも作品は売れず生活は困窮していたが互いに助け合う日々が続いた。
1874年、サロンで落選を繰り返す仲間たちと共に「第一回印象派展」を開催するが不評だった。第二回、第三回と印象派展を繰り返し、少しずつ世間に認知されるようになり
印象派の画家としてそこそこ評判になるようになっても作品は売れず不遇が続きルノワールはサロンへの復帰を図り、次第に印象派から遠ざかっていった。ある日、裕福な出版業者のジョルジュ・シャルパンティエ夫妻が彼の能力を認め作品の制作を依頼してきた。



1878年 「シャルパンティエ夫人と子供たち」
油彩 カンヴァス 153.7x190.2cm

ルノワールは期待に背かなかった。翌1879年サロンにも入選し、ジョルジュ・シャルパンティエ夫妻の後押しもあって大きな話題を呼び成功を収める。

模索の時
1881年、40歳のルノワールはイタリア旅行をしラファエロなどの作品を観て「印象主義」の行き止まりを感じ「どうやって描いていいのか分からなくなった」と語っている。
1887年に制作した「大水浴」は輪郭をくっきりと表現した新しい挑戦であったが周囲の評判はあまり良くなかった。やがて、以前のような輪郭線のない柔らかいタッチの作風に戻っていった。

  

  1887年 「大水浴」 油彩 カンヴァス 118x171cm

自らのスタイルへの回帰

1892年、以前の描画スタイルで描いた「ピアノの前の少女たち」が初めて国家買い上げとなりルノワールの絶頂期を迎えた。



1892年 「ピアノの前の少女たち」
油彩 カンヴァス 116x90cm

病気と闘う晩年

1885年に18歳年下のアリーヌととの間に長男ピエールがうまれ1890年に正式に結婚。
生活は安定し名声も得るが1897年、自転車から転落し持病のリューマチが悪化、晩年は病気と闘いながらの制作となる。

1919年、78歳の生涯を終えるが、その日もアネモネの絵を水彩で描き「この絵で、何かが分かり始めた」とつぶやいたそうである。
「私は、楽しい絵しか描かない」と生涯言い続けていた。
ルノワールが「幸福の画家」と言われる所以である。

  印象派と呼ばれる画家たち「ルノワール」
 ルノワールの作品
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