アルフレッド・シスレーは1839年10月30日パリに生まれた。父ウィリアム・シスレーはマンチェスター生まれの実業家で、母もイギリスの上流階級出身でイギリス国籍のシスレー一家はフランスで裕福に暮らしたいた。
シスレー18歳の時家業の勉強をするためにロンドンへ留学している。しかし、シスレーは、ロンドン滞在中、勉強はそっちのけで美術館へ頻繁に足を運び、カンスタブル、ターナーなどの作品に熱中していた。
1860年パリに戻った彼は、家業は継がず画家をめざそうと決心し、親を説き伏せてシヤルル・グレールのアトリエに通いはじめた。このアトリエにはモネ、バジール、ルノワールも顔を出しており、シスレーは伝統にとらわれない技法で絵を描いていた彼らと意気投合。戸外に連れ立って出かけ、制作に励んだ。
1871年の普仏戦争のさいシスレーの実家は戦火にさらされ父ウィリアムも破産状態で死去し、シスレーも全財産を失ったことで絵によって家族を養わなければならないこととなった。
シスレーはカンヴァスに下絵をほとんど描かずに、直接、油絵具で描くことが多かった。自然光のもとにあるものを、目に映ったままに描こうという印象派の理念は、「鑑賞者にとって理解しやすく、心をとらえるような表現」を求めたシスレーにとって、探く共感できるものだったのだろう。その後、印税派のほかのメンバーがそれぞれ独自の道を歩みだしても、シスレーは目の前に広がる風景を静かに見つめありのままの自然を描こうとした。
柔らかな光に満たされた穏やかな風景画。抒情豊かに描き出された自然は、印象派の心のふるさとであり、原風景といってもいいだろう。ピサロは、(典型的な印象派の画家は誰か?) というマティスの質問に対して、(シスレーだ)と言いきっている。
穏健な画家しかしながら、穏健なシスレーの絵は、強い個性をもった印象派の仲間たちのなかでは、つつましく控えめすぎたようだ。第一回〜第三回、第七回と、シスレーは通算四回の印象派展に出品しているが、ほかの画家たちにくらべ酷評を浴びることもなければ、特別な評価を得ることもなかった。
デュラン・リユエルをはじめ、彼の絵を称賛する画商やコレクターも少なくなかったが、生前の彼にモネのようなブームが訪れることはなく、経済的な苦境から抜け出すことはできなかった。
1899年1月29日、シスレーは長年患ってきた咽頭ガンが原因で、この世を去った。前年10月、舌ガンに苦しんでいた妻を献身的に看取ってから三か月後、子どもたちの面倒を見てもらうため、会いにきてほしいと、モネに依頼した数日後のことだった。そして、2月1日、パリから駆けつけたモネやルノワールに見守られ、モレ・シュル・ロワンの墓地に埋葬された。
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