20世紀の絵画 1890〜1980                   西洋絵画美術館 >> 20世紀の絵画


印象主義から後期印象主義、象徴主義へと様式が変化していく中、20世紀にはいると絵画界の動きは一定の様式に当てはまらなくなった。
画家個々が複数のスタイルを描くようになり様式は益々多様化し、単に20世紀絵画と言う以外になくなってしまった。

 Rousseau  
 アンリ・ルソー

 1884〜1910

 フランス
 
 

20世紀初頭はエコール・ド・パリなど多くの画家たちがパリに集まりしのぎを削った時代であったが、一方で日曜画家から一流画家が数多く生まれた時代でもあった。
その代表格がアンリ・ルソーである。彼は市の税関に勤める役人であった。もちろん美術教育など受けたこともなくほとんど独学で絵を描いた。
ルソーが本格的に絵を描き始めたのは40歳を過ぎてからである。2度も妻に先立たれ、父親が経営する会社も破産するなど決して平穏な人生ではなかったが晩年には精力的に活動しアンデパンダン展(印象派展のあとに出来た展覧会、参加費さえ払えば誰でも出品できた)にも盛んに出品した。
やがて批評家などから一定の評価を受け人気が高まった。ピカソもお気に入りだったいう。

蛇使いの女 眠れるジプシー女 ジュニエ爺さん馬車 陽気なおどけものたち


 
Modigliani  
モディリアーニ

1884〜1920

イタリア
 
 

アメデオ・モディリアーニは地中海に面したイタリア北西部の港町、リヴォルノに生まれた。両親はともにスペイン系ユダヤ人で裕福な家系の出身であるといわれているが22歳でパリに出たモディリアーニは最初は彫刻家を目指すが貧困で材料の石が買えなかったといっている。また製作中に出る石粉で肺を痛めることから絵画に専念することにしたようだ。
しかし、顔や首を長く描く彼独特の絵画はあまり売れず、酒や麻薬に溺れ、生活は乱れ極貧生活であった。
もともと病弱であったが持病の結核がが悪化し35歳で世を去った。



椅子に肘をつくジャンヌ・エビュテルヌ ジャン・コクトーの肖像 マダム・ポンパドゥール 少女の肖像


 Kisling
 キスリング

1891〜1953   

ポーランド
 

モイズ・キスリングポーランド南部の町クラクフでユダヤ人の子として生まれた。
ユダヤ人でありながら本人は無神論者であり、自身の名前モイズも旧約聖書の「モーゼ」を意味することから自身の名前が嫌いだった。
だから作品にはモイズとサインすることはなかったいう。
小さい頃から彫刻に興味があり、美術学校の彫刻科に進もうとしたが定員いっぱいで進めず、絵画科で学ぶことになった。
学校でキスリングのデッサン力が認められパリ行きを勧められたことから、1910年パリで学ぶことを決断した。
パリではピカソ、マティス、モディリアーニらと知り合い前衛絵画の技法も学んだが、そうした技法よりも何を描くかといったことに重要性を感じた。
1914年第一次大戦で外人部隊に志願したが戦場で負傷し、治療のためスペインへ、そこでマリー・ローランサンと知り合う。
その後、パリに戻りフランス軍高官の娘と結婚し、個展にも成功し生活は順風満帆の人生が開けていった、モンパルナスにアトリエがあったことから「モンパルナスの帝王」と言われるようになった。
しかし、第二次世界大戦が始まるとユダヤ人であったキスリングはドイツに占領されたフランスにはいられずアメリカに亡命することとなった。
アメリカでもキスリングの人気は高く、温厚でユーモアにあふれ人づき合いの良い彼は同じ亡命画家たちを経済的に支援した。
戦争が終わりパリに戻ったキスリングは再び精力的に活動をするが1953年病に倒れ、62年の生涯を閉じる。

青い花瓶のある静物 女優エディット・メラの肖像 花束 モンパルナスのキキ


Mucha
ミュシャ

1860〜1939

チェコ 
 

アルフォンス・マリア・ミュシャは現在のチェコ南東部の小さな村イヴァンチェツエで生まれた。
このときチェコはオーストリア帝国の支配下にあったが第一次大戦後にチェコスロヴァキアとして独立した。政治的に複雑な運命をたどった国のためかチェコの人々の民族意識は高くミュシャの心の中も強い民族愛に満ちていた。
もともと音楽に強い興味を持っていた少年だったが、伝統的なビザンチン装飾から絵画に目覚めプラハの美術アカデミーを受験するが不合格となり、オーストリアのウィーンに出て劇場の舞台美術の工房に就職する。大都会の劇場というきらびやかな世界を知ったミュシャは画家でアカデミーの教授でもあるハンス・マカルトと出会い彼の絵画感覚に感銘を受ける。ところが2年後劇場が火災にあいミュシャは解雇なってしまう。
故郷に帰る途中、ミクロフという街に降り立ち何とか劇場装飾などの仕事にありつき細々生計を立てていたが、この街の実力者クーエン伯爵がミュシャの才能にほれ込みパトロン役を買って出てくれた。ミュシャはミュンヘンやパリで自由に絵画に専念したがプロの画家になることに消極的だったことに伯爵は業を煮やし援助を打ち切ってしまう。その時ミュシャは30歳になっていた。
その後、本の挿絵などを描いて細々暮らしていたクリスマス休暇のある日、出入りしている印刷所に女優サラ・ベルナールから正月に公演する「ジスモダン」の宣伝用ポスターの制作依頼が舞い込む、その場に仕事の出来る画家はミュシャしかいなかった、千載一遇のチャンスに巡り合った彼は才能をいかんなく発揮し一気に完成させた。
依頼者サラだけでなくパリ市民の間でも好評で、ミュシャの人気に一気に火がついた。
企業はこぞってミュシャにポスター制作の依頼をし、大忙しの数年を過ごすが、ミュシャの心の中にある強い民族意識が「スラヴ叙事詩」の構想を抱かせ15年後の1910年、故国チェコに戻りその大作を描かせることになる。

巫 女 スラヴ叙事詩より「スラヴの菩提樹の
もとでの若者たちの誓い」」
スラヴ叙事詩より「スラヴ式典礼の導入」 スラヴィア


picasso  
ピカソ

1881〜1973

スペイン 
 


パブロ・ピカソはスペインの最南端アンダルシア地方の美術教師の11人の子供の長男としてうまれた。
子供のころから絵を描くことには天才と呼ばれ、彼が13歳の時に描いた鳩の描写力に驚き父親は筆を折ったと言われている。彼は16歳でマドリードにある王立美術アカデミーにずば抜けた成績で合格するがピカソにとっては学ぶものが何もなかった。新しい可能性を求めた彼は1900年、親友の画家カザジェマスとともにパリに活動の場を求めた。しかし、親友のカザジェマスが失恋の果てに自殺を遂げてしまったことに大きなショックを受け【青の時代】と言われる孤独で不安定な精神上他を迎えることになる。そうした中、パリに定住することを決意しやがて彼にも恋人ができ少しずつ精神的な安定を取り戻すと明るい色彩の作品が増え「バラ色の時代」へと移行してゆく。
作品が売れて生活も安定してきた1907年、【アヴィニョンの娘たち】を完成させるが大胆で革新的なこの作品は周囲の芸術家の理解を超えていたが後の「キュビズム」の出発点となる。
その後もピカソは野心的に技法を改革し硬質な輪郭線による写実的な作品が多くなり「新古典主義の時代」となるのだが1928年ごろから既存の形態を壊したい欲望からグロテスクなまでに変形させた人体を描くようになり今日我々が知っているピカソの作品はこの時代のものが多い。


アルルカン アヴィニョンの娘たち 浜辺を走る二人の女性 アルルカン姿のパウロ
     
 帽子をかぶって椅子に座る女性  泣く女 ゲルニカ 



Miro  
ミロ

1893〜1983

スペイン 
 


ミロはピカソとともに最も多彩な画家であり、最も大きな影響力を持った20世紀の画家と言える。
職人の家に生まれながらも、父親は、画家になりたいというミロの望みえをたしなめ、バルセロナにある店の帳簿係という仕事を押し付けた。そのためミロは神経を病むことになるが、それでも彼の決心はいよいよ固くなるばかりだった。ミロは1919年にパリに行き、前衛のシュルレアリストたちと出会った。
ミロはフランスとスペインを往復し、のちにはアメリカにも出かけ、ホテルや大学の壁画を作製した。天性のユーモア感覚をもち、説話風の細部描写を好んだ彼の作品は急速に人気を集めた。しかし、そこには同時に、スペイン内乱や第二次世界大戦の破壊的な出来事に根をもつ荒々しさや不気味さも認められる。
ピカソと同じように、ミロも老年まで芸術的実験を続けた。



オランダの室内 逆立ちする人 スペインを救え
研究のための美術