本文へスキップ

有名西洋絵画の解説と紹介をするインターネット美術館です。モディリアーニ 

アメデオ・モディリアーニ

夢追い人



Amedeo Modigliani

1884〜1920

 

イタリア
モディリアーニ 
  アメデオ・モディリアーニは地中海に面したイタリア北西部の港町、リヴォルノに生まれた。両親はともにスペイン系ユダヤ人で裕福な家系の出身であるといわれているが22歳でパリに出たモディリアーニは最初は彫刻家を目指すが貧困で材料の石が買えなかったといっている。また製作中に出る石粉で肺を痛めることから絵画に専念することにしたようだ。

しかし、顔や首を長く描く彼独特の絵画はあまり売れず、酒や麻薬に溺れ、生活は乱れ極貧生活であった。
モディリアーニ絵画の代表作は、大部分が1916年から1919年の間に集中して制作されている。 ほとんどは油彩の肖像と裸婦であり(風景は4点、静物はなし)、顔と首が異様に長いプロポーションで目には瞳を描き込まないことが多いなど、特異な表現をとっているが、これは自身の彫刻の影響が指摘されている。 肖像画についてはモデルの心理や画家との関係を表現するが、一方、裸体画については、女性の造形美への関心が表れているのが特徴である。

1919年7月にはジャンヌ・エビュテルヌに結婚を誓約している。しかし、貧困と生来患っていた肺結核に苦しみ、大量の飲酒、薬物依存などの不摂生で荒廃した生活の末、1920年1月24日、結核性髄膜炎により死亡した。35歳没。 ジャンヌもモディリアーニの死の2日後、後を追って自宅から飛び降り自殺した。この時、妊娠9ヶ月だったという。






  ジャンヌ・エビュテルヌ


















「椅子に肘をつくジャンヌ・エビュテルヌ」
1918年 油彩 カンヴァス 101x65.7cm
パサディナ ノートン・サイモン美術館

モデル代を払えないためか、モディリアーニは仲間たちをしばしば描いた。だが、親しければだれでも描いたわけではなく、創作意欲をかき立てる好みの顔だちがあったようだ。
なかでも、彼が32歳のときに出会った運命の女性ジャンヌを、最後の3年間に25点も描いた。愛する人の存在は、画家を精神的に安定させ、絵画に洗練をもたらした。軽やかに弧を描く細い輪郭線と明るい色調が、優美な雰囲気を囃し出している。
そしてなによりも、すべてを吸い込むような青い空洞の瞳が、深く心に届く。



作品「マダム・ポンパドゥール」




マダム・ポンパドゥール
(ベアトリス・ヘイスティングス)
1915年油彩カンヴァス61.1×50.2cm シカゴ美術研究所

モディリアーニの愛人だったベアトリス・ヘイスティングスは、モディリアーニの芸術をいち早く理解し、高く評価していた。
モディリアーニは彼女を繰り返し描いており、ここでは18世紀のフランス国王ルイ15世の愛妾で、芸術に理解の深かった宮廷人マダム・ポンパドゥールに見立てている。
この絵のように、モディリアーニの肖像画にはモデルの名や絵の主題を文字で記したものが少なくない。肖像画に文字を書き込むことは、それによって画面の平面性を強調しようとする、当時流行していたキュビスムの絵画の影響がうかがえる。

 モディリアーニの作品
 作品はギャラリーアオキ「モディリアーニ」のページで購入できます。